hypeは私のスクリーンネームなんですが別に本名を隠してるわけでもなんでもないです。ドメインを所有してる時点でバレバレですしね。
大阪府堺市にwood.or.jpとmmgs.co.jpの末裔として生まれました。かなり数字が好きな子供で4歳の頃に数字の『4』がきれいに書けたことが嬉しくて庭仕事をしていた母親に報告しに行った記憶があります。幼稚園の頃は4桁の足し算と引き算が趣味で昼食後にチラシの裏に作ってもらった問題を解いていました。小学生の時はテストが5分で終わってしまうので退屈でテスト用紙の裏に足し算をして遊んでいたら桁が垓までいってましたね。算数も好きだったんですが趣味で数列の公式を自作するようなそんな小学生でした。
中学受験をして大阪星光学院というところに進学したのですが、勉強があまりに退屈で音楽、小説、映画、洋服などの趣味に走ってしまい落ちこぼれてしまいました。それでもまあ、卒業できたのでそれなりに勉強はしたんでしょうね。クラブで踊るために東京に行きたかったので大学は指定校推薦で学習院大学の経済学部ってところに行きました。大学では水上スキーしかしていなかったです。
仕事についてなにも考えずに過ごしていたのですが、大学3年生のときに東京ニュース通信社が発行していた『TV Bros.』という雑誌にコラムを投稿したら4作中2作が全国誌に掲載されたこともあって、突如マスコミ志望になりました。なんせ学歴がヘボいので苦労しましたね。50社以上受けて、結局日之出出版というショボい企業に採用されました。そこでは月刊Fineという部署で編集者というかなんでも屋として仕事をして毎日遊んでるような仕事してるようななんの区別もない生活をしていました。寝てる時間と起きてる時間しか区別がありませんでしたね。その後、月刊FINE BOYSという部署に異動させられまして社長と揉めて会社は辞めました。
その頃の話は『おこるでしかしぃ』というエッセイ?としてnoteに掲載してあります。興味のある方はよかったら読んでくださいませ。
その後、縁のあった音楽プロダクションでハウスの音源を制作したりマネージメントしたりしていたのですが月刊Warp Magazine Japanという雑誌を作り始めました。ですが労働環境の悪さもあったり揉めごともあったりして2年ぐらいで辞めました。同時に東放学園という専門学校で音楽ジャーナリズム論という授業をしていたほど音楽関係の取材には自信がありました。ちょうどWindowsやインターネットに人気が出てきて出版業界に翳りが出てきた時期ということもありネオヒッピーのような暮らしを始め、アジア諸国に行って服や宝石を買い集めて日本で売るという怪しげな商売をしていました。その後、投資の仕事で成功して今は大手企業相手に大家さんをしています。
まあ、いろいろあったけど楽しい人生です。どうぞよろしくお願いします。